劇団創立100周年まで、あと

尾河原和雄氏インタビュー全文

09/06/12 ■ Kappa

尾河原和雄氏へのインタビューをお届けします。

尾河原和雄氏プロフィール

1932年京都府伏見生まれ劇団京芸・フリーの照明家を経て1970年より京都府立文化芸術会館に勤務。脚本家としても知られ、退職後は伏見を舞台にした『文殊九助』『廓』等を執筆。著書に『舞台袖から』(文化芸術会館友の会)がある。

インタビュー

京芸との出会いは?

 いつ頃でしょうね?「西陣の歌」の舞台監督になってから、青森から鹿児島までの全国公演があったんですよ。それだけでも大変やのに、移動が夜行列車で、九州なんて1日乗ってても着かない。夜行列車の旅なんて、その当時を思い出すと懐かしいですね。

印象的な公演はありますか?

 そうですね、『西陣の歌』の伊勢湾台風のときの名古屋公演です。1幕開いた途端に停電になって、会館の人に相談して蝋燭前に立ててやったんです。それで、無事に芝居は終わったんですが、芝居が終わっても帰れないですよね、台風ですから。電車もずっと止まってるし、そんでトラックの荷台に全部お客さん乗ってもらって、順番に名古屋市内に配って走った(笑)。

台風の中、来場されたお客さんもすごいですね

 当時はそんな予想がなかったんです。だから、みんな知らんで来てもうたら台風になってるんですよ。開演中に。
 これは藤沢も知ってるし、谷さんも知ってる話やけどね。 照明スタッフとして人形劇団京芸について、すぐやらせてもらったんは、東京大空襲を題材にした『猫は生きている』。
 最近は調光器もいっぱい種類がありますが、私らの時代はまだ変圧器でしたから、あれはテクニック要りましたよ。

それまではお芝居に関わりは?

 「やまびこ座」にいましてね、学生時代に僕より2年先輩の黒田ひろしに誘われて、京都府立第2中学校(今の鳥羽高校)の演劇部におりました。あと、小学生1~3年のころにいた村では芝居が盛んでね、青年団が毎年やるんですよ。そういうのを見て、小学生ながら面白いなと思ったのかもしれませんね。

芝居の下地がそこでできたんですね。

 僕らの時代は、そういうのをせんとね、
 中学の1年まで戦争の時代で、大学入った頃から学生運動。学生運動の中で芝居をやってました。
 大学の頃も演劇部だったんですが、京都教育大のキャプテンが私で、京大のキャプテンが大島渚で、龍谷大のキャプテンが藤沢薫でしたね。

藤沢薫さんの印象をお聞きしてもいいでしょうか?

 それは、あんまり書かんといて(笑)。
 2人とも学生時代からずっとやってる。そういう古い友達ですけどもね。ほんまの意味では、一番気心知れてると思うんですよ。
 藤沢くんは真面目です(笑)

「やまびこ座」では役者をされていたんでしょうか?

 「やまびこ座」では、私は役者だけやりたいとか、裏方だけなんてのは許されなくて、みんなやらされるんです(笑)。役者とか、若いのに演出家もさせられるし、それがそこの教育方針みたいでしたから。そやけど、初めに色々経験したというのがね、後々役に立ったんですね。

照明も脚本も様々に活動されてますね。尾川原さんの脚本家デビューはどんな作品だったのでしょうか?

 脚本を初めて取り上げてもらったのは、人形京芸ですよ。1960年代だったかな?  『地球への第一歩』ってのを書いていますわ。それを人形寄席の第1回でやりました。
 アポロが月着陸したでしょ。その後に書いたんですよ。逆に宇宙のどっかの星から、地球に着いちゃうという。

それは人形劇の脚本として書かれたのでしょうか?

 いえ、人形劇の脚本として書いたつもりだったんですがね。演出で、人形じゃなくて人間がそのままやって、バラエティーみたいなのをやったり、途中にテレビのコマーシャルみたいのを入れたり。当時のテレビ界みたいなことをそのまま、その宇宙の星でやられてる放送としてやったの。
 そんな芝居を今までやった人はなかったしね、それはちょっと好評でした。
 ちゃんとオチがありましたしね。宇宙からぴゃっと来た人間が、地球に着いたら、自分の身を守るために赤ん坊になるわけですよ。その劇場に「ぎゃ-ぎゃ-」って赤ん坊の泣き声で幕が降りるという。それがオチですよ。

照明のお仕事についても伺いたいと思います。照明の楽しいところ、魅力は何だと思いますか?

 「舞台ではできんやろ」という風景を作れたら一番ですね。そういうこと考えると楽しいんですよ。
だから僕は照明の話が来たときは、まずどこか自分が楽しむところを見つけようと思います。
 自分でも良い仕事したというのは、照明が多いですね。
 こないだも京芸のOB会で話題になったのは合同公演の『森は生きている』。四季を一瞬にしてかえるというね、アレ。
 あれは、装置家の板坂さんと相談して、三原色の点描で森の絵を描いてもらいました。そこに緑の光を当てると緑で描いた部分が、だいだいの色を当てると、だいだいが消えるわけです。それを利用して色を変えたんですよ。
 確か8ミリで残ってて、OB会で言ったら、探してと言われました(笑)。

是非見たいです!見つけたら教えてください(笑)
今日までさまざまな活動を続けてこられている尾川原さんですが、その原動力は何でしょうか?

 僕はそもそも決まりきったことをやるのが嫌いなんですよ。芝居の中でも、自由に楽しいな、と思ったことしかしない。
 老子の言葉に「無為自然」というのがあります。何にも成さないで自然にまかせておく。 あくせくと何かをすると却ってマイナスに働いたりするんですね。
 ぼくは自然にしているとなんか仕事が回ってきてね。
 なまけもんの無精もんの、ということにもなるかもしれません。そういう意味ではホンマにぼく無精もんでしたね。もう面倒くさいことせぇへん。で、酒だけ飲んでた。よう酒飲んでました。
 京芸の古い人に聞いたら、あいつは酒飲みだとそりゃあいわれると思いますよ(笑)。

「オガヤンはホンマお酒が好き」だと伺ってます(笑)。さて、尾川原さんが、次に挑戦してみたいことはありますか?

 大きな事でよう言わんけども、言うとすれば、小説が書きたい。ぼくらの年代が生きた時代ってのは一番おもろい時代。どこかで表現しとかなあかんなって思う。この年になって考えるのが、無駄なこともようけしたなぁってこと。せやけどその無駄なことが生きている場合もある。

どうもありがとうございました。

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